不遇は神よりの慈愛の鞭(むち)

不遇は神よりの慈愛の鞭(むち)である。

磨き粉がなかったら磨けないように、

火に入れ水に入れなかったら

鍛えられないように、われもまた、

いろんな目に会わされなかったら

ものにならないのである。

めに会わされた人でなくては、ものはわからない。

向上の過程

よりよい、より高い階段へと昇って

後をふりかえって見るときは、

だれでも

「なんだって、あんな幼稚で恥ずかしいばかげたまねをしていたのだろう」

と自分自身の過去の狭小さ、醜汚(しゅうお)さを

笑わずにはいられないのである。

このことは無限に繰りかえされる。

こうして、人はしだいに向上していくのである。

真理とは?

なんとなくそうしたいという気分が人生の羅針盤である。

理屈をいっている間はダメだ

解釈をしているあいだは初歩だ

真理には理屈も解釈もない

あるがままが真理であり 

なるがままが真理である

逆境は誰の責任か?

逆境に 立つは己が浅見の 罪にこそあれ 運命にあらず

物質論からでは

その主観はどこから来るか。

現代の学者は遺伝と経験とから来るといっている。

なるほど、これはある意味において正しい。

が、この遺伝はどうして起こるか。

これは、単なる生理現象の研究からのみではどうしても分からない。

生命の起来(きらい)という問題は、物質論からでは明らかにゆき詰まりである。

神は見えないが、

神は見ることはできないが、感ずることはできる。

—– その人の疑うのは知識が限られているからである。

蝉に冬のあるをいっても信じないであろう。

感じるのは在るからである。

有無を論じるのはすでに在るからである。

絶対にないものならば、その有無の論さえ意識に上るはずがない。

絶対にないことが、人の意識にどうして上がってくるだろうか。

祈りと実行とは

人間は縦に祈ることによって、

より多くの神愛、神智、神力を受けることができ、

横に実行することにより、

はじめて神の容器としての自己を鍛錬し、

拡大していくことができるのである。

祈りと実行とは、霊と体との関係のようなものである

光が射してくる人生

『祈れば光が射してくる 

今までみえなかった道が見え出してくる 

その道をお進みなさい 

進むのはあなたの足で 

また行きづまったら 

またお祈りなさい』

正直なのに。不正直なのに。

この世の中だけを見ていると、正直でありながら苦しんでいる人がある。

かと思うと、不正直であるのに、のんきに生きている人がある。

永遠ということが了解できていないと、このような現象は不可解な謎となってくる。

運命・悲劇

運命が悲劇をつくるのではない。

無知と執着と自暴自棄とが作るのだ。

運命というもの

運命というものは、どういうものであるかといえば、運命は命(めい)を運ぶ。

宿命は命を宿すで、すでに種である。