不遇は神よりの慈愛の鞭(むち)である。
磨き粉がなかったら磨けないように、
火に入れ水に入れなかったら
鍛えられないように、われもまた、
いろんな目に会わされなかったら
ものにならないのである。
めに会わされた人でなくては、ものはわからない。
不遇は神よりの慈愛の鞭(むち)である。
磨き粉がなかったら磨けないように、
火に入れ水に入れなかったら
鍛えられないように、われもまた、
いろんな目に会わされなかったら
ものにならないのである。
めに会わされた人でなくては、ものはわからない。
喉がかわいた時には水がほしいし、冷たい時には火がほしい。
夏は木かげがよいし、冬は日あたりがよい。
善というも悪というも、ただその時、
その場所によってのことである。
ものに絶対は決してない。
自分自身でさがし求めて、
つぎつぎに経てきた世界内ならば、
たとえ、どんなまぎらわしい場所におかれても、
ゆうゆうと適宜(てきぎ)の方向を見いだすことができ、
狼狽することなしに、安全地帯に出ることができる。
しかし、他人によってさがしもとめ、
つくりあげられた世界の真ん中へ、
突然、ぽつんとおかれたとすればどうであろうか。
案内人が来てくれないかぎり、
彼は確実に迷い児になる。
自身をもって、足一歩をふみ出すこともできない。
これは、にせの、仮メッキの表面の知や信を、
一時によそおっているにすぎないからである。
悶えるのは執着があるからだ。
つぎにまた、何事でも一事に執着し固着してはいけない。
いっさいは流動性において活きているのであるから、
つぎつぎに目先をかえ、内容を変えてゆかねばならぬ。
自分より以上のものを慕い、
その命に服従するのは信仰である。
お互い同士がたがいに
信じあい愛しあうのは信愛である。
自分以下のものを信じて
大事にするのは信任である。
信仰ある人は必ず上からの恵み幸いを受け、
知らずしらず、よりよい道にみちびかれる。
信愛あれば必ず人から助けられ、
好意をよせられ、よりより地位へすすめられる。
信任すれば、かならず、
そのものより十分なる奉仕を受けられるはずである。
自分がえらいと思うから腹が立つのだ。
修行してもしても、しきれない身なのだ。
いつも子供になって、ほがらかに、
“いろは”の”い”からやり直す雅量と覚悟が必要である
とにかく、こういう世の中になってきた以上は、
一度は精神的、物質的ドン底の生活をくぐってこなければ、
一人前にはなれない。
生半可に悟ったふりのことを言っていても、はじまらない。
いかに天才であっても、
辛酸を経なければ子供である。
一気に功をなし遂げようとする結果は、
自然、どこかに無理が生じる。
一時はうまくいっても、
その無理が積もると
いっさいを無茶苦茶にしてしまう。
われわれは決してあせってはならない。
よりよい、より高い階段へと昇って
後をふりかえって見るときは、
だれでも
「なんだって、あんな幼稚で恥ずかしいばかげたまねをしていたのだろう」
と自分自身の過去の狭小さ、醜汚(しゅうお)さを
笑わずにはいられないのである。
このことは無限に繰りかえされる。
こうして、人はしだいに向上していくのである。
物質の損得は一時的のことであるが、
霊魂の損得は永久である。
夫婦愛だけでなしに、というものは、
兄弟愛も主従の愛も、友達の愛も人類愛もおなじものであって、
自分がつくさなければ、
自分が世話をしなければ生じるものではない。
お互いが世話をし合うところに愛情は生じてくる。
それをよく知っていなければだめである。
近ごろは学問が盛んになって、
自然を無視してまで、いわゆる学理に従わせようとする癖があり。
恐ろしいくせである。
いまの学説は、いわば暫定のものである、
試験中のものである。
それを絶対視して、
自然の要求をないがしろにするとはまったく無茶である
中心がかたむけば塔は倒れる。
嬉しいことも悲しいことも理屈ではない。
人間の理屈から人間を造り出したのではないから、
人間の理屈で人間を取り扱ってはならない。
人間的計算で前途を案じることはない。
どうも、一番最初にフト思い浮かんだことが正解らしい。
後から、いろいろと迷って、いろいろと理知の力をかりて
訂正してみるが、かえってそのために間違っている場合が多い
春になればいろいろな花が急に咲き出し、
蝶舞い鳥うたい、水のぬるみ風あたたかに、
見るもの聞くもの一切のどやかに、
はなやかになって来るように、
人間もまたその時になれば、
その時のことが自然にできだしてくるのである
利己観念の強い人ほど、
物ごとを正当に公平に価値づけることができない。
彼らはつねに自己というものを、
その中へ取り入れている。
世間のせまい者ほど自己を知らない。
やはり、どう考えてみても、
人生にいちばん貴いものは体験である。
体験の深刻な人、豊富な人ほど
どことなしに輝いている、落ちついている。
いろいろな境涯をへてきたあとでなければ、
人は何もできるものではない。
真の宗教は真の哲学なり。
宗教は芸術(文学、音楽、舞踏、
絵画、彫刻、建築)となって体現す
春夏の季節(とき)は絶対に人間の干与(かんよ)をゆるさないが、
人間の「時」はそうではない。
努力いかんで、精神的乳児の境界を切りぬける時間は
ひじょうな相違がある。物質的には、順所の変化即時間であるが、
精神的には変化と時間とは正比例しない。
努力ひとつで
数多い変化を瞬間になすこともできれば、
一変化、一進歩に
無限の時間をついやすこともできる。
順序はすなわち道である。
道をうしなったら、万事は闇であり無である。
ただ、次の、これだけのことが真に悟了(ごりょう)できたら
人間は卒業である。
われわれはいっさいを神にまかせ奉りて、
赤子のような心をもって送ること、
ただ、これだけである。
つき合ってみて、
なんとなく威圧を感じるような人は、
自分よりえらいのである
しかし、いかなるものによっても、
ちっとも神が感ぜられず、
光が見えぬというのは、
明らかにその人自身の我執(がしゅう)と
傲慢との罪である。
世のたいていの人はまだまだ懸命に神を求め、
道を探すところまでいっていないのである。
彼らには、
名をあげようとか、
財産を作ろうとかいうようなことを唯一の目的として生きているのでは、
まだまだコンマ以下である。
名とか金とかいうものは、徳(霊的の)に応じて、
自然に、必然的にあつまってくるものであって、
こっちから遮二無二求めようとしても、真にもとめ得られるものではない。
いわゆる、その罪を憎んでその人をにくまずで、
できてしまったことで、すでに、その人が後悔していることなら、
もはや、これを責める必要は毫(ごう)もない。
いな、そのうえこれを責めたら、かえってよくない結果をみちびくだけである。
因果の法則は厳として犯すことはできぬ。
偶然に苦しみ、偶然に病気になるなんてことは
金輪際あるものではない。
すでに人間は相対に置かれたものである。
ゆえに、絶対を考えることはできぬ。
絶対を論じてみても無駄だ。
空を論じ、虚無を思うてみてもなんにもならぬ。
われらは、その日その日を幸福におくってゆく工夫さえしたらよいのだ。
*相対:互いに他との関係をもち合って成立・存在すること。
その反対は「絶対」 *絶対:他に比較するものや対立するものがないこと。また、そのさま。
鴨居(かもい)と敷居(しきい)に、
しじゅう頭と尻とを押さえられているので、
障子(しょうじ)は立つことができ、
また動くことができるのである。
もし、鴨居と敷居とがなかったら、障子はたつことも動くこともできない。
人間に適当の不自由があり、制縛(せいばく)があり、不幸があるから、
活動があるのであって、ぜんぜん自由無制縛におかれたら、なんにも働きは起こらない。
第一、動こうとする意思さえなりたたない。
—– しかし、鴨居と敷居がゆがんでいては、
障子は動くことができない。いや、ときによっては、
毀損されて、形を失う結果になる、
同様に、あまり不自由な制縛や不幸がありすぎても、
われわれは立つ瀬がない。