表裏あること

尻をふいた手で箸を持つのは妙なようだが、

いたし方のないことである。

といって、善を言わずに醜ばかりを

さらけだすような者は愚の骨頂だ。

表裏あることはよく心得ていて、

しかも、なるべく善美をいうのがよい。

絶対はない

喉がかわいた時には水がほしいし、冷たい時には火がほしい。

夏は木かげがよいし、冬は日あたりがよい。

善というも悪というも、ただその時、

その場所によってのことである。

ものに絶対は決してない。

光に接する

ある固定した状況から、

他の見知らぬ状況に移るためには、

少なからずおっくうと困難がともなう。

しかし、

殻をやぶらなければ光に接することはできない。

仮メッキの表面の知や信

自分自身でさがし求めて、

つぎつぎに経てきた世界内ならば、

たとえ、どんなまぎらわしい場所におかれても、

ゆうゆうと適宜(てきぎ)の方向を見いだすことができ、

狼狽することなしに、安全地帯に出ることができる。

 

しかし、他人によってさがしもとめ、

つくりあげられた世界の真ん中へ、

突然、ぽつんとおかれたとすればどうであろうか。

案内人が来てくれないかぎり、

彼は確実に迷い児になる。

 

自身をもって、足一歩をふみ出すこともできない。

これは、にせの、仮メッキの表面の知や信を、

一時によそおっているにすぎないからである。

フト興味をそそり

フト興味をそそり、フト目につき、

耳に入るのが、その時の自己の

内界を外的にあらわしているのだ。

霊界の意味を形にしてあらわしているのが

現界であるから、現界の事象、ひとつとして

意味をふくんでいないものはない。

しかし現界人は、単にこれを、

自然的因果法則によるものと解して、

あくまでそれを、物質的に探求しているだけである。

信仰・信愛・信任とは

自分より以上のものを慕い、

その命に服従するのは信仰である。

お互い同士がたがいに

信じあい愛しあうのは信愛である。

自分以下のものを信じて

大事にするのは信任である。

信仰ある人は必ず上からの恵み幸いを受け、

知らずしらず、よりよい道にみちびかれる。

信愛あれば必ず人から助けられ、

好意をよせられ、よりより地位へすすめられる。

信任すれば、かならず、

そのものより十分なる奉仕を受けられるはずである。

“いろは”の”い”

自分がえらいと思うから腹が立つのだ。

修行してもしても、しきれない身なのだ。

いつも子供になって、ほがらかに、

“いろは”の”い”からやり直す雅量と覚悟が必要である

向上の過程

よりよい、より高い階段へと昇って

後をふりかえって見るときは、

だれでも

「なんだって、あんな幼稚で恥ずかしいばかげたまねをしていたのだろう」

と自分自身の過去の狭小さ、醜汚(しゅうお)さを

笑わずにはいられないのである。

このことは無限に繰りかえされる。

こうして、人はしだいに向上していくのである。

ほんとうの情愛

夫婦愛だけでなしに、というものは、

兄弟愛も主従の愛も、友達の愛も人類愛もおなじものであって、

自分がつくさなければ、

自分が世話をしなければ生じるものではない。

お互いが世話をし合うところに愛情は生じてくる。

それをよく知っていなければだめである。

恐ろしいくせ

近ごろは学問が盛んになって、

自然を無視してまで、いわゆる学理に従わせようとする癖があり。

恐ろしいくせである。

いまの学説は、いわば暫定のものである、

試験中のものである。

それを絶対視して、

自然の要求をないがしろにするとはまったく無茶である