不遇は神よりの慈愛の鞭(むち)

不遇は神よりの慈愛の鞭(むち)である。

磨き粉がなかったら磨けないように、

火に入れ水に入れなかったら

鍛えられないように、われもまた、

いろんな目に会わされなかったら

ものにならないのである。

めに会わされた人でなくては、ものはわからない。

仮メッキの表面の知や信

自分自身でさがし求めて、

つぎつぎに経てきた世界内ならば、

たとえ、どんなまぎらわしい場所におかれても、

ゆうゆうと適宜(てきぎ)の方向を見いだすことができ、

狼狽することなしに、安全地帯に出ることができる。

 

しかし、他人によってさがしもとめ、

つくりあげられた世界の真ん中へ、

突然、ぽつんとおかれたとすればどうであろうか。

案内人が来てくれないかぎり、

彼は確実に迷い児になる。

 

自身をもって、足一歩をふみ出すこともできない。

これは、にせの、仮メッキの表面の知や信を、

一時によそおっているにすぎないからである。

理屈と実際

理屈よりは実際だ。理屈は誰でも知っている。行えぬだけだ。

利己なければ畏れ(おそれ)なし 畏れなければ自由自在だ

信仰・信愛・信任とは

自分より以上のものを慕い、

その命に服従するのは信仰である。

お互い同士がたがいに

信じあい愛しあうのは信愛である。

自分以下のものを信じて

大事にするのは信任である。

信仰ある人は必ず上からの恵み幸いを受け、

知らずしらず、よりよい道にみちびかれる。

信愛あれば必ず人から助けられ、

好意をよせられ、よりより地位へすすめられる。

信任すれば、かならず、

そのものより十分なる奉仕を受けられるはずである。

一歩も歩けないほどの荷物を

寸毫(すんごう)も過不足なく、蒔いただけは刈らさせられるのだ。

自分一人で背負い込んでは、

一歩もあるけないほどの荷物を負わされている人たちを、

そのまま棄てておいては、

いつまでたっても同じ場所で

悲鳴をあげていなければならぬ。

お情け深い神さまは、かかる人たちのために、

みずから、その人の伴(つ)れとなって、

その荷の一部を持っていってくださるのだ。

誠の心さえ通じたら、どんな罪人も許される、

というのは、ここのことなのである

進歩向上とは

進歩向上というのは、

一段上の層へのぼることである。

おなじ平面上をあちらこちら回ってるのでは

進歩向上にはならない。

しかし、一つの平面上のことを知り尽くしてから

上の層へあがるというのが順序である。

自分の境域にだけ住んでいて、

好きな人とばかりいれば、

一番らくで天国であるが、それでは狭い。

自分の嫌なこともしなければ修行にはならない。

ほんとうの情愛

夫婦愛だけでなしに、というものは、

兄弟愛も主従の愛も、友達の愛も人類愛もおなじものであって、

自分がつくさなければ、

自分が世話をしなければ生じるものではない。

お互いが世話をし合うところに愛情は生じてくる。

それをよく知っていなければだめである。

人間もまたその時になれば

春になればいろいろな花が急に咲き出し、

蝶舞い鳥うたい、水のぬるみ風あたたかに、

見るもの聞くもの一切のどやかに、

はなやかになって来るように、

人間もまたその時になれば、

その時のことが自然にできだしてくるのである

この瞬間に

今という この瞬間に善を言い

善を思いて善をおこなへ

神が感じられない理由

しかし、いかなるものによっても、

ちっとも神が感ぜられず、

光が見えぬというのは、

明らかにその人自身の我執(がしゅう)と

傲慢との罪である。

いや、実のところは、

世のたいていの人はまだまだ懸命に神を求め、

道を探すところまでいっていないのである。

彼らには、

神より金、人格より金額が貴いのである。

責める必要は?

いわゆる、その罪を憎んでその人をにくまずで、

できてしまったことで、すでに、その人が後悔していることなら、

もはや、これを責める必要は毫(ごう)もない。

いな、そのうえこれを責めたら、かえってよくない結果をみちびくだけである。

減らないものと減るもの

物を人に与えることは、与えるだけは自分のものが減るのだが、

精神的のものをあたえる場合は、決してそうではない。

いくら人をほめても、気の毒だ、かわいそうだと思い、

かつ、慰安の言葉を与えたところで、

そのために、自分の持っている魂の量は決して減ずるものではない。

手を引き合って

しかし、よく考えてみれば、

自分の兄弟を苦しめることは、

自分を苦しめることである。

人はどこまでも手を引き合ってゆくのでなくては、

自分ひとりが幸福になろうと

あせったところでだめである。

神は見えないが、

神は見ることはできないが、感ずることはできる。

—– その人の疑うのは知識が限られているからである。

蝉に冬のあるをいっても信じないであろう。

感じるのは在るからである。

有無を論じるのはすでに在るからである。

絶対にないものならば、その有無の論さえ意識に上るはずがない。

絶対にないことが、人の意識にどうして上がってくるだろうか。

光が射してくる人生

『祈れば光が射してくる 

今までみえなかった道が見え出してくる 

その道をお進みなさい 

進むのはあなたの足で 

また行きづまったら 

またお祈りなさい』

愛は・・・・

おおそうだ、愛は無限だ。

他人(ひと)にやさしい言葉をあたえるために、

わたしの言葉は貧弱にはならない。

他人に好意を寄せるために、わたしの好意は減るものではない