光に接する

ある固定した状況から、

他の見知らぬ状況に移るためには、

少なからずおっくうと困難がともなう。

しかし、

殻をやぶらなければ光に接することはできない。

仮メッキの表面の知や信

自分自身でさがし求めて、

つぎつぎに経てきた世界内ならば、

たとえ、どんなまぎらわしい場所におかれても、

ゆうゆうと適宜(てきぎ)の方向を見いだすことができ、

狼狽することなしに、安全地帯に出ることができる。

 

しかし、他人によってさがしもとめ、

つくりあげられた世界の真ん中へ、

突然、ぽつんとおかれたとすればどうであろうか。

案内人が来てくれないかぎり、

彼は確実に迷い児になる。

 

自身をもって、足一歩をふみ出すこともできない。

これは、にせの、仮メッキの表面の知や信を、

一時によそおっているにすぎないからである。

フト興味をそそり

フト興味をそそり、フト目につき、

耳に入るのが、その時の自己の

内界を外的にあらわしているのだ。

霊界の意味を形にしてあらわしているのが

現界であるから、現界の事象、ひとつとして

意味をふくんでいないものはない。

しかし現界人は、単にこれを、

自然的因果法則によるものと解して、

あくまでそれを、物質的に探求しているだけである。

理屈と実際

理屈よりは実際だ。理屈は誰でも知っている。行えぬだけだ。

利己なければ畏れ(おそれ)なし 畏れなければ自由自在だ

悶え

悶えるのは執着があるからだ。

いっさいは流動性

つぎにまた、何事でも一事に執着し固着してはいけない。

いっさいは流動性において活きているのであるから、

つぎつぎに目先をかえ、内容を変えてゆかねばならぬ。

信仰・信愛・信任とは

自分より以上のものを慕い、

その命に服従するのは信仰である。

お互い同士がたがいに

信じあい愛しあうのは信愛である。

自分以下のものを信じて

大事にするのは信任である。

信仰ある人は必ず上からの恵み幸いを受け、

知らずしらず、よりよい道にみちびかれる。

信愛あれば必ず人から助けられ、

好意をよせられ、よりより地位へすすめられる。

信任すれば、かならず、

そのものより十分なる奉仕を受けられるはずである。

“いろは”の”い”

自分がえらいと思うから腹が立つのだ。

修行してもしても、しきれない身なのだ。

いつも子供になって、ほがらかに、

“いろは”の”い”からやり直す雅量と覚悟が必要である

一気に成功する結果

一気に功をなし遂げようとする結果は、

自然、どこかに無理が生じる。

一時はうまくいっても、

その無理が積もると

いっさいを無茶苦茶にしてしまう。

われわれは決してあせってはならない。

向上の過程

よりよい、より高い階段へと昇って

後をふりかえって見るときは、

だれでも

「なんだって、あんな幼稚で恥ずかしいばかげたまねをしていたのだろう」

と自分自身の過去の狭小さ、醜汚(しゅうお)さを

笑わずにはいられないのである。

このことは無限に繰りかえされる。

こうして、人はしだいに向上していくのである。

ほんとうの情愛

夫婦愛だけでなしに、というものは、

兄弟愛も主従の愛も、友達の愛も人類愛もおなじものであって、

自分がつくさなければ、

自分が世話をしなければ生じるものではない。

お互いが世話をし合うところに愛情は生じてくる。

それをよく知っていなければだめである。

生き方の奥義

中心がかたむけば塔は倒れる。

理屈ではない

嬉しいことも悲しいことも理屈ではない。

人間の理屈から人間を造り出したのではないから、

人間の理屈で人間を取り扱ってはならない。

人間的計算で前途を案じることはない。

真理とは?

なんとなくそうしたいという気分が人生の羅針盤である。

理屈をいっている間はダメだ

解釈をしているあいだは初歩だ

真理には理屈も解釈もない

あるがままが真理であり 

なるがままが真理である

一番最初にフト思い浮かんだこと

どうも、一番最初にフト思い浮かんだことが正解らしい。

後から、いろいろと迷って、いろいろと理知の力をかりて

訂正してみるが、かえってそのために間違っている場合が多い

結局はこうなる

自分で、うまい具合に言い訳の理屈をつけて、

人間というものは利己を行なうものだ。

しかし、大局から見れば、みな、なるままになって行くまでだ。

正当な評価が出来ない人

利己観念の強い人ほど、

物ごとを正当に公平に価値づけることができない。

彼らはつねに自己というものを、

その中へ取り入れている。

世間のせまい者ほど自己を知らない。

人間の「時」はそうではない

春夏の季節(とき)は絶対に人間の干与(かんよ)をゆるさないが、

人間の「時」はそうではない。

努力いかんで、精神的乳児の境界を切りぬける時間は

ひじょうな相違がある。物質的には、順所の変化即時間であるが、

精神的には変化と時間とは正比例しない。

努力ひとつで

数多い変化を瞬間になすこともできれば、

一変化、一進歩に

無限の時間をついやすこともできる。

心と物質 なんの役に立つのか?

心の動き方に意を留めることなくて、

その結果である物質的のことにだけ、

どれほど手段を講じてみたところで、

なんの役に立つものではない。

物質的のものは焼けばなくなるし、

流せば去ってしまうけれども、

それを生みだした心そのものが、

依然として元のままならば、

なんの甲斐もないことである

何を苦しんでいるのか

世界は無限にあるものを、

何を苦しんで人々は、

他愛もないことに執着し、

懊悩(おうのう)するのだろう!

直感と実験

実験は人に属し、直感は神に属する。

ゆえに実験はつねに直感にみちびかれる。

直感を去って実験はない。

ちょっとした出来事でも

ちょっとした出来事でも、また人の言った言葉でも、

よく注意してみると非常な意味がこもっていることがある。

世の中に何ひとつ偶然はないのだから、

いろんなもの事をよく観察してみれば、

みなそれぞれの意味を見いだすことができる。

悲喜苦楽というもの

考えてみるに、世のなかの悲喜苦楽というものは、

ことごとく、その最初における覚悟の程度のいかんによって大きくなり、

また小さくもなるものである。

ところがわれわれ凡人は、自愛の念がつよく、

真に徹底した覚悟をもって臨むことが少なく、

自分勝手な欲一方の期待をかけて、

その遂げられんことをのみ念じているのだから始末が悪い。

コンマ以下の人生

名をあげようとか、

財産を作ろうとかいうようなことを唯一の目的として生きているのでは、

まだまだコンマ以下である。

名とか金とかいうものは、徳(霊的の)に応じて、

自然に、必然的にあつまってくるものであって、

こっちから遮二無二求めようとしても、真にもとめ得られるものではない。

責める必要は?

いわゆる、その罪を憎んでその人をにくまずで、

できてしまったことで、すでに、その人が後悔していることなら、

もはや、これを責める必要は毫(ごう)もない。

いな、そのうえこれを責めたら、かえってよくない結果をみちびくだけである。

電気の発見応用

電気の発見応用は、宇宙完成期を暗示するものである。

このごろでは絵画肖像さえ、

無線の電気でよそへ送ることができるまでになったという。

この理が判れば、人の思いが遠くへ行くという理もたやすく分かるし、

また遠方にいる人の肖像が、フト自分の目前に映ってくる理も了解される。

いわゆる千里眼の理も判明するわけである。

迷うときは

どうしようかと案ずる時は とにかく 進め! 

やり損なったら・・・・と懸念するときは 

いっぺんやり損なってやろうと 大きく構えてやっていることだ 

それを回復するまでは大変だ 

しかし それも興味だ ありがたみだ 

ひと通り 沈香もたき 屁もひってみなければ 

真の世の中は分かるものではない

物質論からでは

その主観はどこから来るか。

現代の学者は遺伝と経験とから来るといっている。

なるほど、これはある意味において正しい。

が、この遺伝はどうして起こるか。

これは、単なる生理現象の研究からのみではどうしても分からない。

生命の起来(きらい)という問題は、物質論からでは明らかにゆき詰まりである。

思うこと

思うことは生ずることである。

思うことを省みなければならない。

思うことがきたなければ、

生ずるものもまたきたない。

思うことが清ければ、

生ずるものもまたきよい。

源がすまなければ、末も澄むことができない

思念だけの世界

心に思うだけの霊界を造ることができる。

アリの思念できる範囲は、アリの世界である。

犬の思念できる範囲は犬の世界である。

人の思念できる範囲は、人に属する世界である。

自由に開拓し、耕作し栽培してよいのだ

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