ちょっとした出来事でも、また人の言った言葉でも、
よく注意してみると非常な意味がこもっていることがある。
世の中に何ひとつ偶然はないのだから、
いろんなもの事をよく観察してみれば、
みなそれぞれの意味を見いだすことができる。
ちょっとした出来事でも、また人の言った言葉でも、
よく注意してみると非常な意味がこもっていることがある。
世の中に何ひとつ偶然はないのだから、
いろんなもの事をよく観察してみれば、
みなそれぞれの意味を見いだすことができる。
考えてみるに、世のなかの悲喜苦楽というものは、
ことごとく、その最初における覚悟の程度のいかんによって大きくなり、
また小さくもなるものである。
ところがわれわれ凡人は、自愛の念がつよく、
真に徹底した覚悟をもって臨むことが少なく、
自分勝手な欲一方の期待をかけて、
その遂げられんことをのみ念じているのだから始末が悪い。
いわゆる、その罪を憎んでその人をにくまずで、
できてしまったことで、すでに、その人が後悔していることなら、
もはや、これを責める必要は毫(ごう)もない。
いな、そのうえこれを責めたら、かえってよくない結果をみちびくだけである。
その主観はどこから来るか。
現代の学者は遺伝と経験とから来るといっている。
なるほど、これはある意味において正しい。
が、この遺伝はどうして起こるか。
これは、単なる生理現象の研究からのみではどうしても分からない。
生命の起来(きらい)という問題は、物質論からでは明らかにゆき詰まりである。
学問は人をみちびく道具にすぎないのであるから、
道具のみをどれほどたくさん集めていたところで、
それが真にその人に利用されておらなければ一文の価値もない。
利用というのは、その人を、真の意味において、向上させることなのである。
理想を見つつ現実をはなれず、
しかも現実を一歩ずつ向上させねばならぬ。
永遠を仰ぎつつ現在をはなれず、
しかも現在を一歩ずつ向上させねばならぬ。
罪はつみである。心の中につみ重ねてある思いも罪であり、借金である。
悟りばかりでも、迷いばかりでも、いっこう、世間は成立せぬ。
迷いと悟りという矛盾があるので世界がありえるのだ。
このことは、前後、上下、善悪、正邪、尊卑、水火、賢愚、大小、多少、天地・・・・・などにおいても同様であって、
このように、一見、矛盾があるようにできているのが、すなわち、矛盾のないところなのだ。
自己を真に省みることの少ないひとほど、
他人のことをやかましくいうものである
いく度もつまづいた人は、容易につまづかなくなる。
最良の資本は
かたき決意なり。
人間の期待ほどあてにならないものはない。
しかもわれわれは、このあてにならない期待をあてにして、
知らず知らずの間にこれに執着しているから、
いったん、その期待が裏切られた場合には、
以前の執着に比例して狼狽と苦悩を受けることになるのである。
おおそうだ、愛は無限だ。
他人(ひと)にやさしい言葉をあたえるために、
わたしの言葉は貧弱にはならない。
他人に好意を寄せるために、わたしの好意は減るものではない
『なるほど、考えてみればこの世は苦しい、淋しい、辛い。
しかしながら、ほんとうは、
苦しいのも淋しいのも辛いのも、みな自分であって、世の中ではない。』