仮メッキの表面の知や信

自分自身でさがし求めて、

つぎつぎに経てきた世界内ならば、

たとえ、どんなまぎらわしい場所におかれても、

ゆうゆうと適宜(てきぎ)の方向を見いだすことができ、

狼狽することなしに、安全地帯に出ることができる。

 

しかし、他人によってさがしもとめ、

つくりあげられた世界の真ん中へ、

突然、ぽつんとおかれたとすればどうであろうか。

案内人が来てくれないかぎり、

彼は確実に迷い児になる。

 

自身をもって、足一歩をふみ出すこともできない。

これは、にせの、仮メッキの表面の知や信を、

一時によそおっているにすぎないからである。

悶え

悶えるのは執着があるからだ。

いっさいは流動性

つぎにまた、何事でも一事に執着し固着してはいけない。

いっさいは流動性において活きているのであるから、

つぎつぎに目先をかえ、内容を変えてゆかねばならぬ。

恐ろしいくせ

近ごろは学問が盛んになって、

自然を無視してまで、いわゆる学理に従わせようとする癖があり。

恐ろしいくせである。

いまの学説は、いわば暫定のものである、

試験中のものである。

それを絶対視して、

自然の要求をないがしろにするとはまったく無茶である

理屈ではない

嬉しいことも悲しいことも理屈ではない。

人間の理屈から人間を造り出したのではないから、

人間の理屈で人間を取り扱ってはならない。

人間的計算で前途を案じることはない。

正当な評価が出来ない人

利己観念の強い人ほど、

物ごとを正当に公平に価値づけることができない。

彼らはつねに自己というものを、

その中へ取り入れている。

世間のせまい者ほど自己を知らない。

心と物質 なんの役に立つのか?

心の動き方に意を留めることなくて、

その結果である物質的のことにだけ、

どれほど手段を講じてみたところで、

なんの役に立つものではない。

物質的のものは焼けばなくなるし、

流せば去ってしまうけれども、

それを生みだした心そのものが、

依然として元のままならば、

なんの甲斐もないことである

刹那こそ

刹那(せつな)のその刹那こそ、

吾々(われわれ)の意思のまま、自由行動の勢力範囲だ。

一分前はもはや

過去の夢となってどうしても逆転させるわけにはいかず、

一分後のことは人間の自由になるものではない 

コンマ以下の人生

名をあげようとか、

財産を作ろうとかいうようなことを唯一の目的として生きているのでは、

まだまだコンマ以下である。

名とか金とかいうものは、徳(霊的の)に応じて、

自然に、必然的にあつまってくるものであって、

こっちから遮二無二求めようとしても、真にもとめ得られるものではない。

迷うときは

どうしようかと案ずる時は とにかく 進め! 

やり損なったら・・・・と懸念するときは 

いっぺんやり損なってやろうと 大きく構えてやっていることだ 

それを回復するまでは大変だ 

しかし それも興味だ ありがたみだ 

ひと通り 沈香もたき 屁もひってみなければ 

真の世の中は分かるものではない

減らないものと減るもの

物を人に与えることは、与えるだけは自分のものが減るのだが、

精神的のものをあたえる場合は、決してそうではない。

いくら人をほめても、気の毒だ、かわいそうだと思い、

かつ、慰安の言葉を与えたところで、

そのために、自分の持っている魂の量は決して減ずるものではない。

光が射してくる人生

『祈れば光が射してくる 

今までみえなかった道が見え出してくる 

その道をお進みなさい 

進むのはあなたの足で 

また行きづまったら 

またお祈りなさい』

進歩の極意

理想を見つつ現実をはなれず、

しかも現実を一歩ずつ向上させねばならぬ。

永遠を仰ぎつつ現在をはなれず、

しかも現在を一歩ずつ向上させねばならぬ。

愉快な世の中

真に自己を投げ出すことさえできたら、世の中は愉快なものだ。

成るかならぬか

ものの成るかならぬかは、

その人の一心に成るか成らぬかによってきまるものである

「自分はこう思う」ということ

「自分はこう思う」ということはいってもいいが、

「自分のいっていることはまちがいない」というようなことをいってはならない。

世界は広く、自分は小さいのだから

幸せな生き方

『人生はお互いに思い思われて、なつかしく、ありがたく感じ合うところに本当の幸福がある。』