絶対はない

喉がかわいた時には水がほしいし、冷たい時には火がほしい。

夏は木かげがよいし、冬は日あたりがよい。

善というも悪というも、ただその時、

その場所によってのことである。

ものに絶対は決してない。

フト興味をそそり

フト興味をそそり、フト目につき、

耳に入るのが、その時の自己の

内界を外的にあらわしているのだ。

霊界の意味を形にしてあらわしているのが

現界であるから、現界の事象、ひとつとして

意味をふくんでいないものはない。

しかし現界人は、単にこれを、

自然的因果法則によるものと解して、

あくまでそれを、物質的に探求しているだけである。

進歩向上とは

進歩向上というのは、

一段上の層へのぼることである。

おなじ平面上をあちらこちら回ってるのでは

進歩向上にはならない。

しかし、一つの平面上のことを知り尽くしてから

上の層へあがるというのが順序である。

自分の境域にだけ住んでいて、

好きな人とばかりいれば、

一番らくで天国であるが、それでは狭い。

自分の嫌なこともしなければ修行にはならない。

生き方の奥義

中心がかたむけば塔は倒れる。

人間相互の行為の理由

人間相互の行為は、

その奥底に、みなそれぞれ、

それだけの深い深い理由があるのである。

人から苦しめられるのは、

苦しめられるだけの罪を持っているからであり、

ほめられるのは、ほめられるだけのわけがあるのである。

一番最初にフト思い浮かんだこと

どうも、一番最初にフト思い浮かんだことが正解らしい。

後から、いろいろと迷って、いろいろと理知の力をかりて

訂正してみるが、かえってそのために間違っている場合が多い

結局はこうなる

自分で、うまい具合に言い訳の理屈をつけて、

人間というものは利己を行なうものだ。

しかし、大局から見れば、みな、なるままになって行くまでだ。

いろいろな境涯

やはり、どう考えてみても、

人生にいちばん貴いものは体験である。

体験の深刻な人、豊富な人ほど

どことなしに輝いている、落ちついている。

いろいろな境涯をへてきたあとでなければ、

人は何もできるものではない。

良い結果をもたらすもの

「なんとなしに、そういう気がする」

というのは、霊界が感応しているのであるから、

なるべくその気分にしたがって行動した方が、

かならず良い結果をもたらすものである。

このことは、日常の体験から、だれでもがうなずくことである。

真の宗教は

真の宗教は真の哲学なり。

宗教は芸術(文学、音楽、舞踏、

絵画、彫刻、建築)となって体現す

人間の「時」はそうではない

春夏の季節(とき)は絶対に人間の干与(かんよ)をゆるさないが、

人間の「時」はそうではない。

努力いかんで、精神的乳児の境界を切りぬける時間は

ひじょうな相違がある。物質的には、順所の変化即時間であるが、

精神的には変化と時間とは正比例しない。

努力ひとつで

数多い変化を瞬間になすこともできれば、

一変化、一進歩に

無限の時間をついやすこともできる。

順序すなわち

順序はすなわち道である。

道をうしなったら、万事は闇であり無である。

ただ、次の、これだけのこと

ただ、次の、これだけのことが真に悟了(ごりょう)できたら

人間は卒業である。

いっさいは神意であること。

われわれはいっさいを神にまかせ奉りて、

赤子のような心をもって送ること、

ただ、これだけである。

えらい人

つき合ってみて、

なんとなく威圧を感じるような人は、

自分よりえらいのである

逆境は誰の責任か?

逆境に 立つは己が浅見の 罪にこそあれ 運命にあらず

直感と実験

実験は人に属し、直感は神に属する。

ゆえに実験はつねに直感にみちびかれる。

直感を去って実験はない。

表は裏

表は裏によって保たれ 

裏は表によってたもたる 

心をつちかうものは形であり 

形を造るものは心である

行為とは

行為は思念のあらわれである。

人間社会の目に見ゆる一切は、

その社会人の目に見えぬ思念のあらわれである。

電気の発見応用

電気の発見応用は、宇宙完成期を暗示するものである。

このごろでは絵画肖像さえ、

無線の電気でよそへ送ることができるまでになったという。

この理が判れば、人の思いが遠くへ行くという理もたやすく分かるし、

また遠方にいる人の肖像が、フト自分の目前に映ってくる理も了解される。

いわゆる千里眼の理も判明するわけである。

思念だけの世界

心に思うだけの霊界を造ることができる。

アリの思念できる範囲は、アリの世界である。

犬の思念できる範囲は犬の世界である。

人の思念できる範囲は、人に属する世界である。

自由に開拓し、耕作し栽培してよいのだ

積極と消極

消極は地獄であり 

積極は極楽である 

相対

すでに人間は相対に置かれたものである。

ゆえに、絶対を考えることはできぬ。

絶対を論じてみても無駄だ。

空を論じ、虚無を思うてみてもなんにもならぬ。

われらは、その日その日を幸福におくってゆく工夫さえしたらよいのだ。

*相対:互いに他との関係をもち合って成立・存在すること。
その反対は「絶対」 *絶対:他に比較するものや対立するものがないこと。また、そのさま。

相応の理

相応の理によってでなくては、

何ひとつできるものではない。

地球には地球相応の理があり、

現代には現代相応の策あり、

獣には獣相応の道がある。

赤子に論語を説くのをやめて、

アメ玉をねぶらせよ。

餓死せんとする人に天国の福音を説くも、なんの要かあらん。

これを救うは、一椀の食のみ。

孤独

この世においても、

あの世においても、

孤独ほど刑罰はない。

不自由、不幸があるのだが

鴨居(かもい)と敷居(しきい)に、

しじゅう頭と尻とを押さえられているので、

障子(しょうじ)は立つことができ、

また動くことができるのである。

もし、鴨居と敷居とがなかったら、障子はたつことも動くこともできない。

人間に適当の不自由があり、制縛(せいばく)があり、不幸があるから、

活動があるのであって、ぜんぜん自由無制縛におかれたら、なんにも働きは起こらない。

第一、動こうとする意思さえなりたたない。 

—– しかし、鴨居と敷居がゆがんでいては、

障子は動くことができない。いや、ときによっては、

毀損されて、形を失う結果になる、

同様に、あまり不自由な制縛や不幸がありすぎても、

われわれは立つ瀬がない。

神は見えないが、

神は見ることはできないが、感ずることはできる。

—– その人の疑うのは知識が限られているからである。

蝉に冬のあるをいっても信じないであろう。

感じるのは在るからである。

有無を論じるのはすでに在るからである。

絶対にないものならば、その有無の論さえ意識に上るはずがない。

絶対にないことが、人の意識にどうして上がってくるだろうか。

達人は凡人の・・・

よく吠える犬は臆病であり、

白波の立つ瀬は浅いに決まっている。

たえず小言ばかりいう人間は、

気が小さいからである。

達人は、一見、凡人のごとく、

途中の鼻高は、一見、大家に見えがちのものだ。

名論と徳

いくら名論をはいたところで、

その人に力と徳がなかったら、

蓄音機だけの効果しかない。

名論よりは力だ、徳だ。

達人

談笑裡(だんしょうり)に事を解決する手腕のある人は、えらい人である。大きく浮き沈みをした人ほど度量が大きい。すべて、達人は静かである。

正直なのに。不正直なのに。

この世の中だけを見ていると、正直でありながら苦しんでいる人がある。

かと思うと、不正直であるのに、のんきに生きている人がある。

永遠ということが了解できていないと、このような現象は不可解な謎となってくる。

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