不遇は神よりの慈愛の鞭(むち)である。
磨き粉がなかったら磨けないように、
火に入れ水に入れなかったら
鍛えられないように、われもまた、
いろんな目に会わされなかったら
ものにならないのである。
めに会わされた人でなくては、ものはわからない。
不遇は神よりの慈愛の鞭(むち)である。
磨き粉がなかったら磨けないように、
火に入れ水に入れなかったら
鍛えられないように、われもまた、
いろんな目に会わされなかったら
ものにならないのである。
めに会わされた人でなくては、ものはわからない。
ある固定した状況から、
他の見知らぬ状況に移るためには、
少なからずおっくうと困難がともなう。
しかし、
殻をやぶらなければ光に接することはできない。
理屈よりは実際だ。理屈は誰でも知っている。行えぬだけだ。
利己なければ畏れ(おそれ)なし 畏れなければ自由自在だ
寸毫(すんごう)も過不足なく、蒔いただけは刈らさせられるのだ。
自分一人で背負い込んでは、
一歩もあるけないほどの荷物を負わされている人たちを、
そのまま棄てておいては、
いつまでたっても同じ場所で
悲鳴をあげていなければならぬ。
お情け深い神さまは、かかる人たちのために、
みずから、その人の伴(つ)れとなって、
その荷の一部を持っていってくださるのだ。
誠の心さえ通じたら、どんな罪人も許される、
というのは、ここのことなのである
とにかく、こういう世の中になってきた以上は、
一度は精神的、物質的ドン底の生活をくぐってこなければ、
一人前にはなれない。
生半可に悟ったふりのことを言っていても、はじまらない。
いかに天才であっても、
辛酸を経なければ子供である。
一気に功をなし遂げようとする結果は、
自然、どこかに無理が生じる。
一時はうまくいっても、
その無理が積もると
いっさいを無茶苦茶にしてしまう。
われわれは決してあせってはならない。
よりよい、より高い階段へと昇って
後をふりかえって見るときは、
だれでも
「なんだって、あんな幼稚で恥ずかしいばかげたまねをしていたのだろう」
と自分自身の過去の狭小さ、醜汚(しゅうお)さを
笑わずにはいられないのである。
このことは無限に繰りかえされる。
こうして、人はしだいに向上していくのである。
夫婦愛だけでなしに、というものは、
兄弟愛も主従の愛も、友達の愛も人類愛もおなじものであって、
自分がつくさなければ、
自分が世話をしなければ生じるものではない。
お互いが世話をし合うところに愛情は生じてくる。
それをよく知っていなければだめである。
なんとなくそうしたいという気分が人生の羅針盤である。
理屈をいっている間はダメだ
解釈をしているあいだは初歩だ
真理には理屈も解釈もない
あるがままが真理であり
なるがままが真理である
春になればいろいろな花が急に咲き出し、
蝶舞い鳥うたい、水のぬるみ風あたたかに、
見るもの聞くもの一切のどやかに、
はなやかになって来るように、
人間もまたその時になれば、
その時のことが自然にできだしてくるのである
怖いこわいと思い詰めたら、
玩具の蛇にでも気絶する人がある。
要するに、自分みずからの想念で強烈な悪電気を作って、
自分みずからを殺すことになるのである。
心の持ち方に修養をつまなければ、真の力はできない。
人間というものは実に身勝手なもので、
病気のときは「病気くらい悪いものはない、
病気さえなおったら、どんな仕事でも不平をいわずに働こう。
達者になったら、これに超したことはない」
と決心していながら、いざ達者になると、
もう前のことはすっかり忘れてしまって、
何かにつけ不平不満ばかりいっているのである。
たのむところが大きいから、
失望することも大きいのだ。
人を恨み、世を呪う、大半はこれだ。
逆境に 立つは己が浅見の 罪にこそあれ 運命にあらず
今という この瞬間に善を言い
善を思いて善をおこなへ
しかし、いかなるものによっても、
ちっとも神が感ぜられず、
光が見えぬというのは、
明らかにその人自身の我執(がしゅう)と
傲慢との罪である。
世のたいていの人はまだまだ懸命に神を求め、
道を探すところまでいっていないのである。
彼らには、
世界は無限にあるものを、
何を苦しんで人々は、
他愛もないことに執着し、
懊悩(おうのう)するのだろう!
艱難(かんなん)の大なる後は
幸福の恵みの花の大なるが咲く
刹那(せつな)のその刹那こそ、
吾々(われわれ)の意思のまま、自由行動の勢力範囲だ。
一分前はもはや
過去の夢となってどうしても逆転させるわけにはいかず、
一分後のことは人間の自由になるものではない
考えてみるに、世のなかの悲喜苦楽というものは、
ことごとく、その最初における覚悟の程度のいかんによって大きくなり、
また小さくもなるものである。
ところがわれわれ凡人は、自愛の念がつよく、
真に徹底した覚悟をもって臨むことが少なく、
自分勝手な欲一方の期待をかけて、
その遂げられんことをのみ念じているのだから始末が悪い。
反省することは真に”知る”唯一の手段である。
世の、苦しんでいると称する人々の実情を見るに、
その九分九厘までは、いずれも自分で自分をしばっているのである。
やっていることに無理があるのである。
どうしようかと案ずる時は とにかく 進め!
やり損なったら・・・・と懸念するときは
いっぺんやり損なってやろうと 大きく構えてやっていることだ
それを回復するまでは大変だ
しかし それも興味だ ありがたみだ
ひと通り 沈香もたき 屁もひってみなければ
真の世の中は分かるものではない
思うことは生ずることである。
思うことを省みなければならない。
思うことがきたなければ、
生ずるものもまたきたない。
思うことが清ければ、
生ずるものもまたきよい。
源がすまなければ、末も澄むことができない
因果の法則は厳として犯すことはできぬ。
偶然に苦しみ、偶然に病気になるなんてことは
金輪際あるものではない。
罪の種は得意のときに蒔かれ、
天国へのハシゴは失意のときに造られる。
しかし、よく考えてみれば、
自分の兄弟を苦しめることは、
自分を苦しめることである。
人はどこまでも手を引き合ってゆくのでなくては、
自分ひとりが幸福になろうと
あせったところでだめである。
人間は縦に祈ることによって、
より多くの神愛、神智、神力を受けることができ、
横に実行することにより、
はじめて神の容器としての自己を鍛錬し、
拡大していくことができるのである。
祈りと実行とは、霊と体との関係のようなものである
『祈れば光が射してくる
今までみえなかった道が見え出してくる
その道をお進みなさい
進むのはあなたの足で
また行きづまったら
またお祈りなさい』
理想を見つつ現実をはなれず、
しかも現実を一歩ずつ向上させねばならぬ。
永遠を仰ぎつつ現在をはなれず、
しかも現在を一歩ずつ向上させねばならぬ。